白峯寺 縁起

当山は弘法・智証両大師の開基である。
弘法大師は、弘仁六年(815)当山に登られ、峯に如意宝珠を埋め閼伽井を掘られた。
かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしと云う。
次いで貞観二年十月の頃瀬戸の海上に流木出現し、光明に耀き異香四周に薫じたので、
国司の耳に入りこれを当時入唐留学より歸朝して金倉寺に止住せられていた善知識円珍和尚に尋ねられた。
和尚かの瑞光に導かれて当山に登り、山中を巡検して居ると白髪の老翁現はれて曰く

「吾は此の山の地主神、和尚は正法弘通の聖者なり。
この山は七佛法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相共に佛堂を建て、佛法を興隆せん。
かの流木は補陀洛山のさんざしなり。」

との御神託あり。乃ち流木を山中に引き入れて千手観音の尊像を彫み、
当寺の本尊として佛堂を創建せられた。

 その後、保元元年(1156)保元の乱に因り、第七十五代崇徳天皇当国に御配流、
山麓林田郷綾高遠の館に三ヶ年後、府中皷ヶ丘木丸殿に移り六ヶ年、都合九年間配所の月日を過ごされて、
長寛二年(1164)旧八月廿六日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児嶽上に茶毘し、御陵が営まれた。
 然るに霊威甚だしく峻厳にして奇瑞帝都に耀いたので、御代々の聖主、公卿、武將も怖れ崇め奉り、
御府莊園を寄せて御菩提を弔い、十二時不断の読経三昧等当山に綸旨、院宣を下され、
或は法楽、詩歌、種々の霊器宝物を奉納して御慰霊の誠を盡され、特に第百代の後小松帝は、
御廟に「頓証寺」の御追号勅額を奉掲して、尊崇の意を表された。
又仁安元年神無月の頃、歌聖西行は四国修行の途次、御廟に参詣し、
一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇徳院現前して一首の御製を詠ぜられた。


即ち、  "松山や 浪に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな"

西行涙を流して御返歌に "よしや君 昔の玉の床とても かゝらん後は何にかはせむ"

と詠じ奉ると御納受下されたのか度々鳴動したと云う。
その他、崇徳院御笛の師参りて奉った歌、或は平大納言時忠卿御廟参の砌、
奉納せられたる詩歌の序文等は本縁起に詳しく載せられている。
抑々往時は塔頭廿一ヶ坊を数へ、長日不断の勤行溪々に谺して
殷盛を極めていたが、度々祝融、兵火、の災に遇うも藩侯生駒家、松平家の外護によって再建維持され、
明治維新の変革を経て現況を保持している。下記目録の外、唐画、和画、掛物、
其の他近代家々の御方懐紙、色紙、短冊、連歌、或は知行高、折紙、佛像画像等多数あり、
よってこの國の名藍多い中にあって只当寺のみ拾芥抄諸寺の部にも載せられて居り、
葉集に所謂玉藻よし讃岐の国は国柄か見れどもあかね神がらか…
と世々の集に載せられる所の名所唯此の松山の辺に相双ぶ如くである。
八雲御抄等に此の国の名所が詳述せられており、この松山の名所古跡であることが理解されるであろう。

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